ホームメイド

 寒風にも先程から舞い散る雪にも、白い建物は負けずに聳え立っている。一見しただけでは頼もしい牙城だ。これが何十回、いや何百回と脱走を許して来ている、悪名高きアーカム・アサイラムと誰が思おうか。
 昼間の陽気とは打って変わって冷え込んだ外気は、その秘めた弱さを糾弾し、内部のヴィランを出させぬ最後の壁のように感じられる。ただ彼らは出て行くと決めたら、寒かろうが暑かろうがミサイルが降ろうが、必ず出て行く者達だ。天気など全く意に介すまい。
 今の所この寒さが影響を及ぼせそうなのは、アーカム・アサイラムを外から見張る、闇夜の騎士ただ1人であった。彼にした所で、動かぬと決めたら梃子でも駒鳥でも動かぬ男だ。アーカムを取り巻く風は、悪戯にそのケープを靡かせるだけであった。
「……異常なしか」
 かじかむ唇は僅かに動かすだけで、ざっくり裂けてしまうような気がした。それでもブルースは小さく呟き時計に目をやる。
 日付が変わるまであと少し。このまま何事もなく“明日”が訪れてくれれば、彼は我が家へ帰られる。もう少しの辛抱だと荒れ狂うケープに言い聞かせ、ブルースは再び暗視スコープを目に当てた。
 動くものは風と雪ばかりだった緑色の世界を、不意に空から降って来たものが遮る。
「邪魔だ」
「…失礼」
 驚きもしない様子で逆に虚を突かれたのか、素直にクラークはブルースの横へと移動する。赤いブーツに踏まれた雪が抗議の声を上げた。そう、唸る風の中でそんな物音が聞こえる程度には、ブルースも神経をそちらへ向けている。
 冷静に見えるのはクラークの到来を予想していたからだ。が、予想していても上手い言い訳は思い付かなかった。ブルースの肝を据わらせているのは、事前準備ではなく諦めにも似た居直りである。
「ディックから聞いてね、ここにいると」
 白い吐息と共に、響きの良い声が発される。無視したブルースが相槌を打たないのを更に無視して、クラークは続けた。
「遅れた理由を言い訳させて貰うと、今年は僕も忙しかった」
「だろうな」
「広場やイベント会場の特設ロボットをレックス・コープに頼むだなんて、正直その相手を恨みたい気持ちだ」
「……だろうな」
 どう考えてもいきなり暴れ出す事は明らかだ。ルーサーの圧力か、はたまた担当者が平和ボケでもしていたのか。これがゴッサムであれば、騒動の種になりそうな物を一箇所に置く事で、ヴィランの一網打尽を狙う作戦といった所だろう。しかし鋼鉄の男の眉間は、そうではなかった事をブルースに伝えている。
「だから君へのプレゼントは無い」
「欲しいと言った覚えは無い」
「欲しい物を素直に欲しいと言うだなんて、君はそんな野暮な人間じゃないだろう?」
「お前の口から野暮という言葉を聞くとはな、スモールビル。天気が荒れるのも道理だ」
「空が荒れ模様なのは」
 言葉を切りクラークが上空を仰ぐ。青くも赤くもならぬ頬に業を煮やしてか、とびきり強い風が吹いた。季節と真逆の瞳が揺れたのは、しかし風の所為でも寒さの所為でもない。次いで聞こえるだろう言葉を、ブルースは静かに身構え待った。
 風の泣き声が遠くに去っていく。この男もアーカムの向こう側へ連れて行ってくれれば良いものを、と思うが、無理な願いであると分かっていた。
「――誰かさんが手作りチョコレートをヴィランに差し入れたから、じゃないか?」
――来た。
 はらりはらりと舞う雪がスコープに、マスクに、耳の間に積もる。間断なく叫んでいた風も戻って来ない。きつく奥歯を噛み締めたブルースに、クラークがとうとう静寂の幕を切り裂いた。
「全部聞いたよ。今月は大変だったそうじゃないか。2日はトゥーフェイスが蝋燭持ってウッドチャックの誘拐。その次は旧正月を理由にチャイナタウンでジョーカーが大騒ぎだって?」
「…後者は今年初めての試みだった」
 少々焦った、とブルースも言わざるを得ない。だが正直な答えにもクラークは追及を緩めなかった。
「そして旧正月を調べていたジョーカーが、たまたま知った日本式バレンタインデーを広めた、と言う訳か」
 クラークの言う通りである。
 日本ではこちらと違って、恋人にチョコレートを贈るのが主流らしい。ならば今年のバレンタインはチョコレートを中心にしよう――と、奇しくもアーカム・アサイラムに集っていたヴィラン達は決定したらしい。
 こんな時に限って団結力の湧く連中である。何故それを更生に向けようとしないのか、ブルースはいつも虚しさに捕われる。
 一足早かったのはスケアクロウで、彼はチョコレートの小売店へ訪れた客目掛け、チョコレート恐怖症となるガスを吹き掛けた。
 更に大胆な事に、バットマンと直接対峙してチョコレートをせびったのがリドラーである。「恋のように甘く、天使のように清らかで、そして蝙蝠のように黒いものは何だ?」と言う問いで、ブルースはようやく彼らを動かす原動力がチョコレートだと知った。
 これだけならばいつも通り、菓子店や小売店、工場の警備を強化すれば良い話だ。しかし通常と違っていたのは――ゴードンからの頼みとディックの提案であった。
 曰く、連中が日本式をテーマに動いているならば、最終的な目標はチョコレートである。ならばいっそバットマンがチョコレートをくれてやれば、14日は例年に無い平穏な1日になるのではないか?という事だった。
「逆説的にも程があるよ!」
「私は反対したんだ!」
 肩を怒らせるクラークへ、とうとう暗視スコープから目を離しブルースは叫ぶ。寒さで感覚が衰えている筈なのに、頬が妙に熱いのは、結局その案に乗ってしまったからである。
「くそ、最初は激辛の生物兵器にするつもりだったんだぞ……!」
「何でそれにしなかったんだい?!」
「…アルフレッドがな」
 手作りチョコレート指南役の老執事は、目を凛と輝かせてこう言ったのだ――『食べ物を粗末にするとは何事ですか!』と。
 そして面白そうな事には目が無い少年サイドキックが、ならばと言った――『じゃあ女の子が作ってくれそうなやつにしようよ、ミルクと砂糖アリアリで!』と。
 始めた時間帯は遅かったが、そこは無いとは言わせぬウェイン邸、そしてアルフレッドである。製菓用チョコレートにミルク、生クリーム、アラザンからチョコレートの型まで、全て魔法じみた鮮やかで揃っていた。
 ついでにと言うか勿論と言うか、3人分のエプロンもあった。
 初心者も同然なブルースとディックに、アルフレッドは懇切丁寧かつ厳格に指導を行った。勝負を掛けた14日の朝には、バッタランを思わせる小さな蝙蝠型のチョコレートがぎっしりと出来上がっていたのである。
「で、それをゴードンさんからアーカムへ差し入れたんだね」
「ああそうだ!…全てはゴッサムの為だ、仕方あるまい」
 ブルースは強くスコープを握り締める。最後のラッピングにまで手を抜けなかった、凝り性の自分が情けない。目を丸くしていたゴードンの顔が今更ながらに思い出された。
「…だけど何故ここで見張りなんかしているんだ?」
 尤も至極、しかし聞かれたくなかった事を言われ、ブルースは硬直する。だが手作りチョコレートの事実まで知られた以上、隠す事はもう余り無い。
「……アーカムの職員から連絡が入った」
「連絡?」
「奴らの手にチョコレートは無事に渡った――連中は」
 暗視スコープにぴしりとヒビが入った。ブルースは、寒さなどすっかり忘れて最後の一言を告げる。
「集団ではしゃぎ回って逆に脱走しかねない、と!」
 言い切ってクラークを睨み付けると、彼は眉を寄せ、口元を緩め――笑いと呆れが等分に入り混じった顔をしていた。
――吹き出すならいっそ一思いにやれ!
 殺気の篭もった眼差しが通じたのか、クラークは慌てて笑いを収め、手を振る。
「い、いや、そうか。うんそうだったんだな、うん」
「分かったなら早くメトロポリスに帰れ。そもそも何故お前がここにいるんだ」
 一呼吸分の後の答えは、苦笑交じりのものだった。
「それがね、さっきも言った通り今年はプレゼントが無くて」
 またか、と横を向いたブルースの肩に大きな手が触れる。感覚の鈍った体に優しい、暖かな掌は、そのまま積もっていた雪を静かに払った。
「だから体で……と言うべきなのかな、君の手伝いが出来れば良いと思ってね」
 余計な世話だと言い返そうとするより早く、嫌がられると思ったけれど、と続けられ、ブルースは何も言えなくなる。逃げ込んだ暗視スコープの世界は緑色だが、しかしクラークの苦手とする鉱物で作られている訳ではない。風より早く動く手に攫われてしまった。
「おい」
 間近に迫った端整な顔は、少しばかり眉尻を下げ、切なげな色を浮かべていた。
「ヴィランに手作りを渡すほど切羽詰っていたなら、呼んでくれれば良かったのに。…彼らが羨ましいよ」
 余裕を見せるつもりか片目を瞑られても、益々ブルースは話し辛くなるばかりだ。つい一歩後ろに下がり掛けるのを堪え、彼の手にある暗視スコープを取り返す。
「あ」
「……忙しかった男の台詞とは思えんな」
 まともに取り合っていないと言わんばかりの冷たい声を出しながら、ブルースはスコープを仕舞い込み、踵を返した。足首あたりまで積もっていた雪の上に、点々とブーツの跡が残っていく。
「ブルース?」
「帰るぞ」
「帰るぞって……監視していたんじゃないのか?」
 立ち止まっているクラークに振り返り、ブルースは強張っていた頬を緩めた。
「生憎だが連中の行動パターンは把握している。14日を過ぎた以上、今日これから何かをするという事は無い」
 大きな目を瞬かせていたクラークだったが、やがてその顔に笑みが戻り始める。冬の外気にも負けず頬を輝かせ、彼はすぐにブルースの傍らを占めた。
「ご一緒しても?」
「好きにしろ」
 雪の上に2つの足跡が並んでいく。夜が明ければ消えるだろうと思いながらも、余り悪い気はしなかった。
「……でもブルース」
「何だ」
 弾かれたように顔を上げたクラークに、思わずブルースも眉を寄せる。いかにも恐る恐る、といった素振りで、彼はブルースの顔を覗き込んだ。
「日本式って事は、つまりその……来月の14日に、お返しがあるって事じゃないかい?」
 ざくり、と大きな音を立てて雪が飛び散る。
 光あれば影が、バレンタインデーがあればホワイトデーが。
――忘れていた。
 極東の島国における律儀さを、ブルースは心底から呪った。頬や口元に付いた雪を、取り払う事も忘れて佇む。
 愕然として立ち止まってしまった闇夜の騎士を、だが緋色のケープがそっと包む。背中に回されたそれにブルースが顔を上げると、そこにはいつもの鋼鉄の男が、雪をも溶かす笑みで待っていた。
「来月こそ、手伝わせてくれるね?」
 否など言わせぬその顔に、沈んでいた覚悟が再浮上する。
「お前も忙しくならなければ良いが、な」
 試作品という名で包んだ、手作りチョコレート最後の一袋は、14日を過ぎても有効に作用するだろうか。
 横の男がどう反応するやらと思いつつ、ブルースは再び雪の上に足を踏み出した。

一足遅れましたがバレンタインもの。あとで改行直すかもしれません。
執事のお料理教室も書いていたんですが、長くなったので割愛しました。
帰ったらディックさんが食べてた、という事態にならないよう願います。

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