VEGETABLE GARDENING

 最初にケイブから邸内へ出るのはいつもバーバラだ。
 ブルースは装備の最終確認に加えて、事件の調査をするから当然遅くなる。ディックは着替えだけなら1番早いのだが、ブルースに纏わり付いたり叱られたりと時間が掛かる。
 なので手早く装備品を補充し、考え事をしているブルースの邪魔をしないバーバラが先になる。シャワーを浴び終えアルフレッドの夜食に舌鼓を打つのも、当然1番最初だ。
「あれ?」
 だがバーバラは居間に通じるドアを開け、思わず首を傾げた。
「珍しいじゃない。何かあったの?」
「んー、別に」
 肩にタオルを掛けたディックはそう言って首を振る。ただし彼の青い瞳は、バーバラではなく天井に――いや、天井の灯りにかざした小さな袋に向いていた。
 癖の少ない猫っ毛はまだ乾き切っていないらしく、頭の形に沿って流れている。丁寧にブローして来たバーバラとはそこで時間差が縮まったのかもしれない。普段ならタオルを取って拭いてやる所だが、今はディックの濡れ髪よりも持っている袋に興味を引かれた。
「…ニンジンの種?」
 覗き込んで書かれている文字を読むと、ディックはバーバラよりも華奢な首を縦に振った。
「アルフレッドが今日買って来たんだって。また作るらしいよ」
「また?…ああそっか、去年は全滅したもんね」
「リベンジするつもりみたい」
 成る程、とバーバラは頷いた。
 屋敷裏手に広がる庭を越え、ウェイン家の女性達が愛した薔薇園を抜けると、森へ繋がる道の横に菜園がある。往年の当主が自給自足を目指していた頃は農園であったらしいが、時代が流れると共に縮小されていった場所である。それでも手入れする者がアルフレッド1人という状況から考えれば、もう半分ほど縮小しても良い位の広さだ。
 何故そうしないのか。理由は簡単極まりない。
 彼が意外なほどその菜園に打ち込んでいたからである。
「確か、植えてすぐミスター・フリーズが雪降らせたんだよね?」
「そうそう。あれは悲惨だったわ……」
 雪のこんもりと積もった菜園と、その前に立つアルフレッドの背中が甦る。ショックが過ぎたのか、もう1度植えようとのブルースの提案をも退けて、彼はその年の菜園作りからすっかり手を引いてしまった。
 だが1年経つと流石に心の傷も癒えたのだろう。そうなると、とバーバラは1年前を思い出して眉を寄せた。
「今年の夏の訓練は草刈りになるかも」
「うえ、勘弁してよ」
 ディックが生煮えの野菜でも食べたように唇を歪める。無理もない。去年の種植え前後に行われた一大草刈りイベントは、広さもあって訓練と言うよりは修行、いや苦行であった。
 しかしバーバラはあえて指を立て振ってみせた。
「馬鹿ねディック。あんた人生で何度も見られるとでも思ってるの?麦わら帽子被ったブルースを?」
「…そりゃそうだけどさ、うん、あれは物凄いレアだけど」
 春も長け日差しは夏に近い。熱中症を避けるべく大きな麦わら帽子――当然あご紐付き――を被り、軍手を付けたTシャツ姿のブルースは、どこをどう見ても闇夜の騎士とは思えなかった。あれから夏休みの健康優良児以外のものを想像しろと言う方が無茶である。
 バーバラは見てすぐ吹き出したディックの背中を抓りながら、自分も引き攣る腹筋と戦うのに必死であった。
 帽子の広いつばがブルースの顔を翳らせ、厳しい表情と合間って軍人のようだったのもいけなかった。しかもあご紐が日差しに引き立つ白いゴム製である。惜しむらくは履いていたのが半ズボンではなかった事だが、もしそうだったら笑いの爆発で自分は今頃この世の者ではなかった可能性がある。
「似合わないって言うか、とにかくおかしいんだよね」
「分かるわ。おかしいのよね、全体的に」
「何がおかしい?」
 不意に響いた声に、バーバラとディックは調子を合わせたように揃って振り返った。
 案の定ドアを開けて、ディックと同様に肩へタオルを掛けたブルースが立っている。内側からランプを灯したように目元は赤いが、怒りの色ではあるまい。シャワーを浴びて間もない所為なのだろうと、濡れ髪を見てバーバラは考える。
 しかしその色に去年の日焼けした彼が思い出され、バーバラはひくりと喉が震えるのを感じた。
「え、ええと」
「アルフレッドがね」
「アルフレッドが?」
 常ならばここで何かしら、気の利いた逸らし方が出来る筈だが、今は込み上げる笑いの衝動を抑えるので精一杯だ。頼みの綱のディックは、突然の主役登場におろおろと視線を迷わせている。
 しかしながら救いの手というものはあるらしい。
「皆様もうお揃いでございますか?」
 部屋の奥からそう言って顔を覗かせたのは、勿論噂のアルフレッドだった。3人分の視線を一斉に受けながら動じる事なく、彼は奥で繋がっている食堂へと優雅に手を差し伸べる。
「軽食の用意が出来ました。宜しければどうぞ――」
「ありがとう!いただきます!」
 空腹を満たせるという喜びよりも、この場を逃れられる嬉しさで目を輝かせながら、バーバラはいち早く大股でアルフレッドの横を通って行った。少々怪訝そうに瞬きをしつつも、彼もその後に従う。
「…何だったんだ、ディック?」
「アルフレッドがまた畑作りするらしいよ、って話」
 ようやく戸惑いの波が引いたディックは、種の詰まった袋をブルースに差し出して言った。
「そうか。…ニンジンと言えば」
 ブルースはそこで言葉を切りディックを見下ろした。珍しく楽しげな光が、灰がかった瞳に宿っている。何事かとディックは僅かにたじろいだ。
「何処かの誰かは昔、フォークが付けられないほど苦手にしていたな。バーバラの赤毛はニンジン色とも言うと聞いた途端、綺麗に平らげるようになったが――」
「ブルース」
 甘酸っぱい過去を穿り返すブルースに、ディックも“ロビン”の笑顔で言う。
「それバブに言ったら、草刈りの写真をクラークに見せるからね?」
 たちまち強張ったブルースの手から種の袋を取り、ディックは軽やかに踵を返した。宙を滑るように歩きながら食堂へと声を張り上げる。
「アルフレッド!今日の夜食は何?」
 誰もいなくなった居間でブルースは1人、どうやってネガを手に入れるべきか悩み続けていた。

久々に蝙蝠一家で。この頃は家族っぽくて微笑ましいですね。
蝙蝠娘時代のバブは余り書いていないのでまた出したいです。

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