そこに映る色

――あ、また。
 ドアの陰からディックはそう思った。隙間を介して細く見える部屋の中では、ブルースが床に座って本を読んでいる。
 最初に見た時は立派な大人が何をしているのだろうと思ったが、アルフレッド曰く、アジアでの修行中に憶えたものらしい。それが性に合ったのか、はたまた否応無しに身に染み付いたのはか分からない、とも。一緒に座禅、無の境地といった難しい言葉も教えてくれたが、そちらもディックには理解しがたかった。
 しかもブルースはただ腰を下ろすだけではなく、脚を器用に折り畳んで座るのだ。ディックもこっそり試みたが無理だった。
――ブルースはもっと脚が長いから、難しいと思うんだけどな。
 思わず眉を寄せてしまうが、そこは慣れというものなのだろう、と1人納得していると、ふと部屋の中のブルースが動いた。覗き見が分かったのかと思わず怯えたが、どうやら横に置いてある盆から、グラスを取り上げただけらしい。
――あれ。
 ブルースの長い指に絡め取られたグラスは、いつもの見慣れた無色ではない。離し掛けていた顔を、もう1度ディックは隙間に押し付ける。
 水色と呼べるほど薄くはなく、さりとて藍色と呼ぶには渋い色合い。夏に相応しい澄明さと、相応しからぬ憂悶を帯びたような青だった。細かい四角や三角が入り組んだ装飾よりも、硝子製とは思えない深みのある発色が、ディックの目には鮮やかに焼き付く。
 どこかで見た事のあるような、と思うより早く理解した――ブルースの瞳と良く似た色なのだ。
 それもプレイボーイごっこに励んでいる時ではなく、厳しい表情でケイブにいる時の。あの折の瞳の色に、グラスはとても良く似ていた。
 ディックはようやく顔を離して、ドアから退いた。次第に唇が綻んでいく。
――ブルースの目は硝子色なんだ。
 彼さえも知らない彼の事を、自分が知っている。あの、何でも知っていると言わんばかりのブルースの事を、いつも子ども扱いされている自分が。
――僕だけの秘密。
 舞い上がる足取りを抑えながら、ディックはそれでも笑みを浮かべて階段を昇っていった。



「やあ」
「あれ」
 数日後、学校帰りのディックが部屋のドアを開くと、ブルースとクラークが並んで床に座っていた。
「クラーク、いつ来たの?何でそこに座ってるの?」
「ついさっきだよ。あと、真似しようと思ってね。涼しそうだったから」
「汗一つかかない男が良く言う」
 相変わらず器用に脚を組むブルースに対し、クラークは単に膝を引き寄せているだけだ。矢張りあれは難しいのだと、ディックは賛同者を得た気分でソファに座った。ふと机を見ると、数日前に見たグラスが乗っている。氷をたっぷり入れたそれは、間遠に見た時よりもブルースの瞳にずっと近く見えて、こちらも矢張りとディックは微笑む。
「お前も飲むか?」
 ディックの視線を勘違いしたのか、ブルースが問うて来る。少し迷った後、ディックはうんと頷いた。
「分かった。持って来るからこいつの相手を頼んだぞ」
「了解、ボス」
 立ち上がるブルースににやっと笑えば、参ったと言う風にクラークが眼鏡をずり上げた。
「今日も事件の相談?」
「うん、まあ、似たような事だよ」
 曖昧な言葉で語尾をぼかしながらクラークが答える。ブルースの気配は遠ざかっているから、2人の会話が聞こえる心配は無い。少し意地悪い質問でもしてやろうかとディックは考えた。
 眼前に座っている記者が、ブルースに熱を上げている事などお見通しなのだ。彼がウェイン邸に訪れる言い訳が、事件の相談かインタビューの2パターンしか持ち合わせていない事も。
「でも昼間に来るなんて珍しいね!いつも事件の相談は夜にしてるのに」
「う、うん、ちょっと時間の都合で……」
 不味かった、とでも思っているのだろうか。クラークは少しばかり慌て始めた。微笑ましい光景ではある。
「そうだそれに、君に渡したい物もあったんだ!」
「え?」
 首を傾げるディックの前で、クラークは鞄に手を入れ、小さな包みを取り出した。
「先日、日本に取材へ行ってね。そのお土産だよ」
「良いの?!ありがとう!」
 紙包みを勢い良く破くと、またリボンと包装紙が現れた。それも解くと、今度は赤と緑と黄色の硝子玉を付けたキーホルダーが姿を見せる。
「…これ、ロビンの色じゃない?」
「そうなんだよ。見付けてすぐ、これだと思って……気に入ってくれたかい?」
「勿論さ!」
 ありがとう、ともう1度礼を言って、ディックはキーホルダーを目の高さまで持ち上げた。随分と濃く鮮やかな発色が、ますますロビンらしい。意地悪な考えもどこへやら、さてどこに付けようか、と思っているとクラークがまた口を開いた。
「前にも渡しに来たんだけど、君がいなかったからね。直接渡したくて取っておいたんだ」
「…じゃあ、ブルースにはもう渡したの?」
「ああ、それさ」
 クラークの人差し指が――机の上のグラスを示した。
 だがそれよりも、続けて発せられた言葉にディックは目を見開いた。
「見付けた瞬間これだって思ったんだ。ほら、ブルースの瞳にそっくりな色だろう?」
 綺麗だよね、と臆面も無く言うクラークに、ディックは何も答えられなかった。
「何の話だ?」
「あ、お帰りブルース。今このグラスについて……」
 ソファから立ち上がり、ディックはブルースの手からカップを受け取った。紅茶の香りが鼻を擽るが、触れたカップは冷たい。アイスティーだ。
「それじゃ僕は宿題あるから、戻るね」
「ああ、分かった」
「頑張って」
 ほぼ同時に発せられた2人の声を背中に、ディックは乱暴にならぬよう注意を払いながらドアを閉めた。たちまち、唇が尖る。
――僕だけの秘密だったのに。
 少しだけ泣きそうな気分を堪えて、ディックはアイスティーをぐいと一息に飲み込んだ。



 透明なグラスばかり並べられている棚の中に、一際目立つ青いグラスがある。棚にそっと指を這わせてから、ディックは振り返って陽気に言った。
「まだあったんだな、これ。大事にしてるね」
「頂き物だからな」
 ディックが棚を遮っているにも関わらず、ブルースは即座にどのグラスの事か分かったらしい。妬ける、悔しいと言うよりも、当てられたような思いでディックは肩を竦める。
「クラークはまだ?」
「ああ、少し遅れるだろう」
 そう言うブルースの背後で、テレビがテキサスで起こった竜巻について報じている。そろそろ鋼鉄の男が現れても良い頃合いだ。
「一張羅が破れなきゃ良いけど、ね」
「あの男の事だ。タキシードだけは死守するさ」
 中のシャツは皺だらけになりそうだと呟いて、ディックは腕時計に目を向けた。
 オペラの開幕までまだ間はある。少なくとも、空を飛ばねばならないと言う事態は避けられそうだった。今頃はアルフレッドが車内でしびれを切らしているだろう。
「もし遅れたら取材拒否にしよう」
「クラークなら拒否しても良い記事が書けそうじゃないか?僕らの事、昔から知っている訳だしさ」
「…その可能性もあるか」
 全米随一の大富豪と、その養子についての記事。里親を募集している子ども達の為に、デイリープラネット社は先日からキャンペーンを行っていた。そのラストを飾るのが、ブルースとディックの2人という訳だ。無論ディックはマスコミを拒否しているから写真は撮られない。だから今日の、収益が慈善団体に回されるオペラにも、取材に来るのはクラーク1人である。
 クラーク1人。
「そうだよ。全部知っているんだから」
 蝙蝠の下に集った者以外で、知っているのは彼しかいない。2人の出会いももう1つの顔も、育んで来た愛憎も別れも、全て。
「…そんなに多くは知らないだろう」
――ブルースが嫌な顔をする事も、きっと知っているよ。
 口の中でその言葉を飲み込んでから、ディックは答えずにまた棚を向く。時には厭うたその瞳と、良く似た色がこちらを見つめて来ていた。
「これさ、ブルースの目の色にそっくりだよね」
 10年以上黙って来た事を、ディックは口にした。「ああ、クラークもそう言って寄越した」との答えを予想しながら。だが、答えは。
「……そうか?」
 訝しげな答えに思わず振り返ると、ブルースは首を傾げていた。
「もしかして、言われたの初めて?」
「ああ。初耳だ」
 どれ、と言って近付くブルースに、ディックの方が驚いた。どうやら本当に聞いていないらしい。
――僕が初めてだったんだ。
 先を越された事に変わりは無いが、しかし、矢張り、どうしても笑わずにはいられなかった。
「意識した事が無いから良く分からんな……ディック?」
「え?」
「顔がにやけているが、どうかしたか?」
 何でもないよ、とクラークのように慌てて手を振り掛けたが、丁度タイミング良く玄関のベルが鳴った。
「……来たか」
「……行こうか」
 テレビの電源を消して、一足先にブルースが部屋を出る。
その後ろに従い、電気を落とす寸前――ディックは、棚の中のグラスに軽く片目を瞑った。
「遅れてごめん!すぐに送るから」
「車で間に合うから早く着替えろ。青タイツでの観劇はヴェルディが泣くぞ?」
「おいおいクラーク、まさかコスチューム姿?!」
 漏れ聞こえる会話に笑って叫びながら、ディックは2人が待つ玄関へと大股で歩いていった。

蝙蝠の瞳は灰がかった青、くすみ気味、と勝手に考えているのですが、毎回描写に困ります。
宝石など見てもなかなかそれっぽい品が無く、1番近かったのが薩摩切子でした。
お土産にするには難しいお値段・品ですが、色の誘惑に負けて買っちゃった、という事でおひとつ。

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