ファンシイ・ドレス

 ひらりとケープの裾が舞う。黒に黄は矢張り派手すぎると、20年以上経った今ではブルースも思っている。全身と顔半分を覆う黒いタイツはともかく、髪の毛が露出しているのも良いとは言えない。
 元が仮装用だから仕方ないとは言え、もっとデザイン面での手直しをすべきではなかったか。熱烈な女性ファンで浮かれた訳でもあるまいに。若き頃の思い出は楽しいものばかりではない。苦い、と言うか恥ずかしい思い出もある。沢山ある。
「ねーボス、どうかな?これ超かっこよくない?」
 老人の回想を打ち破ろうと、コスチュームを纏った少女の声が響く。赤毛の少女の面影は、マスクを取ったキャリーの笑顔に吸い込まれた。往年のバットガールと全く同じコスチュームを見上げ見下ろし、ブルースは答えた。
「大き過ぎる」
 腕も足も裾が長い。ベルトも1番小さい穴で締めているのに、緩そうに腰から浮いている。そもそも重要な胸元の蝙蝠が、翼を垂らして沈んでいる。最早蝙蝠ではない。V字である。ただそれだけは請われても言うまいとブルースは思った。
 しかしキャリーはロビンとは言えうら若き乙女である。妙齢と言うには早い年頃だが、敏感さという意味では彼らを上回る。たっぷりと自身の胸元を見つめてから、桜色の唇を突き出した。
「後で詰めるからいいの。似合う?似合わない?」
「悪くはない」
「どっち」
「若い者は中庸の良さを知らんな」
 もう、とキャリーは肩を竦める。しかしその視線はすぐ、床に散らばった衣装へと向いていった。着る者のいないコスチュームはかさばるだけで不要な物だが、キャリーにとってはそうではない。ケイブに踊った伝説の集大成である。
 故に、ブルースがもうそろそろ彼女のコスチュームを変えようと言った時、キャリーはすぐさま衣装の群れに飛びついた。曰く『伝統を生かした新たなデザイン』。なるほど、良い響きである。ブルースにも異存は無かった。復帰する前の彼であれば、眉を寄せて忌避していたところだが。
「じゃあ今度はド派手に原色でいこうかなっと」
 コスチュームをとっかえひっかえするキャリーは楽しそうで、かつてゾロの衣装で喜んでいた少年をブルースに思い出させる。そう言えばハロウィーンが近いのだ。ケイブに潜っていると月日が経つのを忘れてしまう。キャリーのはしゃぎ方も、半ばそれを意識しているのかもしれない。コスチュームの持ち主達と異なり、ブルースは彼女とイベント事を祝った経験がなかった。新たな衣装は良いプレゼントとなるかもしれない。
 しかし彼女の手にはあるのは、水色の襟がごてっと付いた青いタイツと、高貴さよりも淫猥さを感じさせる紫のスカートである。ブルースは昔馴染み達のセンスに軽く眩暈を覚えた。自分のアレンジセンスをどう活かせば良いのか途方に暮れる。新コスチュームをプレゼントするには時間が掛かりそうだ。
 尤もコスチュームを選ぶセンスに関しては、自分も余り他人の事は言えない。だが黒を使った分だけ、他よりは褒めて良いと思う。一時期はうっかり色違いでグラデーション等を作ってしまったが、あれは若気の至りである。
 主の苦虫を噛み潰した顔など全く構わず、猫耳マスクを付けたキャリーが次をせがむ。
「ボスー、もっと昔のグリーンランタンみたいなやつは?」
「無い」
「遊びが無くてつまんない、みたいな」
「目立って標的にされる確率が上がるだけだ。ヴィランならばともかく、私達にはそんな余裕が無いんだ」
 スーパーヒーローとは違って、という言葉をブルースは飲み込む。
 全く彼らこそ原色の極みだ。鮮やかで子どもの心を躍らせる、菓子のような色と夢のような力の塊。頭を狙われないように、胸に標的となるシンボルを付けた自分とは大違いだ。

 だと言うのにあの、赤と青と黄色の男は、未だに呆れた連中へ膝を屈している。

「…仮装の時間はそろそろ終わりだ」
 押し出した声音に、キャリーはちょっと眉を寄せるだけだった。今までのどの「助手」達よりも強く望まれた彼女は、こんな時は妙に聡い。小さなキャットウーマン――セリーナが見たら目を細めるか吊り上げるだろう――は、躊躇いなくスカートを脱ぎ捨てた。



 結局そのキャットウーマン姿がブルースにインスピレーションを与え、キャリーがワイルドなアレンジを加えた結果、現在のクールなキャットガールが誕生した訳である。あの日の仮装ごっこは無意味ではなかった。
 もし今日までキャリーがロビン姿であれば、今頃彼女は死んでいただろう。彼女はロビンで無くなったからこそ生き延びられた。「彼」の憎悪をあれ以上、最悪な方面に掻き立てなかったからこそ。
 そう考えてブルースは全身に寒気が走るのを感じた。彼女の死を免れたからか、『彼による』彼女の死を味わわずに済んだからか。
 前者だと思う事にしたが、寒気はまだ消えなかった。胸元に何かが凝っている。ブルースはそこで初めて、自分が目を固く瞑っていた事に気付き――頭上で自分の名を叫ぶ男の声を聞いた。
「……地球の裏側まで響かせるつもりか」
「ブルース!」
「喧しい」
 瞼を開けるのは思ったよりずっと難作業だった。口だけは良く動くのが有難い。ここ10数年、クラークへの悪口雑言が習慣になっているからだろう。
 辛うじて開けた視界には、コードの張り付く体がある。嫌な想像だと分かってはいるが、ブルースはついブレイニアックを思い出した。奴から伸びるコードと電極に絡み付かれていた男は、今は蛍光灯をバックに背負い、ブルースをしかと見つめている。
「私は」
「キャリーに会ってすぐ倒れたんだ」
「彼女は知っているのか」
「いいや。治療室を出てすぐだったからな」
「なら良い」
 出来る事ならもう1度瞼を閉じてしまいたかったが、そうすると2度と起きられないような気がした。別にそれも構わないが、そうなったらまたクラークが大声で怒鳴るに決まっている。地球中の人間に迷惑だ。
 寝台へ吸い込まれそうな力を掻き集め、ブルースは目を動かした。キャリーの方に詰めているのか、それともクラークに追い出されでもしたのか、彼以外のヒーロー達はいない。
「連中はどうした?」
「楽しんでいるよ――ああ全く、至る所で大騒ぎだ。テレビを点けてみても良いが、君の血管がまた切れるだろうな」
 額に手を当ててクラークは言う。いつもよりやや饒舌なのは、ブルースの意識を途切れさせまいとしての事なのだろう。沈黙やそれが産む雰囲気を、往時はそれなりに楽しんでいたと言うのに。ブルースは唇を歪めた。鈍い痛みが顔面全体を走るのは気にしないでおく。クラークへのからかい以上に、痛みには慣れている身だ。
 笑みにならぬ微笑に、クラークも頬を緩める。ここ10数年は現れる事の少なかった表情だ。しかしそれでも、彼には笑顔が良く似合った。蛍光灯さえも一流舞台のスポットライトに変える。
「止めようとしたんだよ」
「10と3年ぶりの表舞台だ。好きにさせてやれ」
 宙に向けて細い息をブルースは吐く。遠退きそうな意識を、今度は息を吸う事で留めた。長くなりそうな瞬きを出来るだけ堪えた。少し視界がぼやけ、クラークのコスチュームが水に落とされた絵の具のように滲む。青と赤と黄色ではない。黒と、赤とだ。
「…案外、黒が似合うな」
「似合うか似合わないか、作る前から分からなかったのか?」
「似合わないと笑い飛ばすつもりだったんだ」
「ピエロ扱いは止してくれ」
 ピエロ、という言葉の持つ不吉さに、言ったクラークの顔が固くなる。先程ブルースが溶岩の彼方に落とした男は、3年前にブルースが絞め殺そうとした男の姿だったと言う。だがブルースはふんと鼻を鳴らし、全力で右手を持ち上げ、クラークの胸元を叩いた。
「タイツを着た連中は皆ピエロだ。…着ない奴らから見ればな」
「…そうかもしれない」
 溜息混じりに首を振るクラークが、ふと顔を上げた。何かが彼の耳に届いたのだろう。薄っすらと眉間に皺が寄る。
「本当に止めなくていいのかい。少しはしゃぎ過ぎだ」
「構わんさ。今日限りだ」
「今日限り?」
 首を傾げるクラークに、ブルースは出来の悪い生徒へ対する教師のような顔で返した。
「我々は確かに存在する。ヴィランは倒せる。それで良い。あとは任せて、我々は我々の戦いに戻れば良い」
 それとも、とブルースは意地悪く、クラークの赤で描かれた胸元をつつく。
「愚かな人間の神にでもなるか?」
「冗談は止してくれ」
 たちまちクラークは真剣な顔になった。吹っ切れた後でも彼は往時と変わらないらしい。ブルースは密かな満足を味わった。
「ハロウィンだとでも思え。仮装した連中が少々騒ぎを起こすだけだ」
 そろそろ口まで重たくなって来た。ぼんやりとした眠気と疲れがじわじわと全身を侵食していく。黒と赤と、今の時期にそぐわぬ夏空の瞳を視界に移してから、ブルースは目を閉じて言った。


「次の日にはきっと――消えている」

ぎりぎりハロウィンと言い張ります。
ネタ帳に書いたのはきっとこんな感じの内容だった!…と思う!

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