キスしたい気分

「疲れているようだな」

 窓を開けてすぐ放たれたブルースの言葉に、クラークは苦い笑みを零した。
「少しね」
 余裕を見せるべく片目を瞑ったが、どうやら逆効果だったらしい。ブルースの目が剣呑に細められる。逆光を浴びた瞳はいつもより深い灰色で、自分より鋼鉄の男に相応しいとクラークは思った。
「…入れ」
 値踏みされるような一瞬を置いてブルースが身を引いた。同時に、夜風に遊ぼうとするカーテンがさりげなく抑えられる。レースの上を滑った長い指先に見惚れながらも、いつものようにクラークはさっと室内へ入った。
 途端に、人のいる場所特有の暖かさが全身を包み込む。いっそこのまま毛足の長い絨毯に沈み込んでしまいたかったが、衝動を堪えてクラークは長椅子の横に立つ。
 振り向けば丁度ブルースも窓を閉め終えた所で、結ばれた視線はどうぞ、と言わんばかりに長椅子へと流れていった。そこでようやくクラークは腰を下ろす。
「5日間ずっと一面記事を飾るのは辛いか?」
「…ああ」
 事故や事件はヒーローを待ってはくれない。それはクラークも良く知っている。だが、だからと言って時期外れの山火事や電車事故、ダムの不具合にルーサーの妙な発明が一時に起こると、流石に待ってくれと叫びたい気持ちになった。最後の件は完全にルーサーの悪乗りであるから、悲鳴を上げた所で大喜びされるだけだろうが。
 加えて市で起こった事件の記事も任せられ、部屋へ帰るのは着替えを取りに行く時だけ、と言う状況が続いたのだ。ようやく一段落付けられ、原稿をペリーに渡した時など、ロイスやジミーを抱き締めたくなった。
「全く、今は誰彼構わずキスしたい気分だよ」
「鉄格子の中のあいつはどうだ?」
「それは……」
 想像して眉を顰めたクラークとは対照的に、ブルースが今日初めての笑みを浮かべる。こう言っては何だが、吊り上げられた唇の端がどことなく彼の仇敵を思い起こさせた。
「下手に収監するよりも良い薬になると思うが」
「止めてくれ!ルーサーは無しだ。除外で行こう」
 必死でクラークは手を振った。だがブルースはと言うと、益々意地の悪い笑みを浮かべてクラークを覗き込んで来る。
「前言撤回が早過ぎるぞ、ボーイスカウト」
「いや、だって、そんな」
 幾ら愛と正義と平和の為に身を捧げるヒーローとは言え、そんな役目はご免だった。だがもしかすると今こそ自分が身を挺してメトロポリスを、いや地球全体を危機から救うべき時なのかもしれない。しかしその方法が戦いではなく、キスとなると――
 徹夜明けで少々箍の外れた思考回路のまま、クラークは長椅子の上で慌てふためく。そんな彼を憐れに思いでもしたのか、ブルースがするりと会話の穂先をずらした。
「で、休みも取らずにここへ来た理由は何だ?」
 落ち着いた低い声音にはっとして、クラークは脇に立つブルースを見上げた。
 そう言われてみると、飛び上がったその瞬間までは家に帰るつもりだったのに、気付けばゴッサム上空にいたのだ。深く考えず一気にウェイン邸へと来てしまったが、ブルースに何か話すべき事があった訳でもない。
 いつもならここで、「理由無しで会いに来てはいけなかったかい?」などと切り返す余裕がある。しかしながら今は疲弊が頭のどこかに住み着いて、クラークの機転を阻害し続けていた。

――僕は何の為にここへ?

「クラーク?」
 見上げて来たと思ったら、いきなり足元に視線を落としたクラークに、ブルースが訝しげな声を掛ける。ややあってから彼の手はクラークの肩に伸びた。
「…疲れているなら休んだ方が良い」
 肩に触れた暖かさがその時、クラークの頭に欠けていたピースをぱちりと嵌めた。
「そうだ!」
「…おい、クラー……」
 ブルースの手を掴むと、クラークは首を傾げさせる時間も与えずに言い放つ。

「僕は君にキスしに来たんだよ!」

 言い終わるより早くブルースを引き寄せると、徹夜続きの鋼鉄の男は迷わず自らの宣言に従い――その数秒後、テラスでぐったりと休む事となった。

完全に気絶したら蝙蝠がそっと室内に運びます。

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