デタントラップ

 アルフレッドはクローゼットから引き出されたものに、そっと白い眉を寄せた。
 季節が変わる度に衣替えと掃除をしていたが、これはどうやら辣腕執事の目を潜り抜けていたものらしい。数年ぶりに取り出されたシャツは夏に相応しい薄手の生地と、晴天を吸い込んだような色をしていた。
 カーテン越しの日差しを浴びて輝く青が、何よりアルフレッドに自身の監督不行き届きを教えてくれる。こんな青をクローゼットから取り出さなくなって久しいからだ。皺を確かめようと広げれば、思ったより柔らかいシャツは、ケープのようにゆるゆる揺れる。
 元々ブルースには鮮やかな色が似合わない。特に青は駄目だった。日陰の似合う肌が益々不健康に、余り明度の高くない青い瞳が数段くすんで見えてしまう。アルフレッドもブルースも避けている色だったが、ここ数年はその傾向に一段と拍車が掛かった。
 アルフレッドはシャツからクローゼットに視線を移す。普段はともかく、青を見慣れた今は、モノトーンの世界がやや頼りない。それでも色を増やすとしたら、アルフレッドは青など絶対に選ぶまい、と心に決めていた。あとは赤もだ。黄もなるべくなら避けたい所である。そう思いながらアルフレッドは別室用の袋にシャツを仕舞い込む。
 この執事の美的感覚を左右しているのは、誰あろう、世界中で最も著名なヒーローの存在であった。

――アルフレッド、バットスーツの強化をしよう。
――アルフレッド、バットモービルはもっと速くならないか。
――アルフレッド、新しく空中用の装備も開発してみたいのだが。

 弾丸よりも速く、機関車よりも強く、高いビルもひとっ飛び。
 それを求め上回ろうとする主人の努力を、アルフレッドは誰より近い所で見続け、聞き続け、そして応じ続けてきた。ただでさえ凝り性という火種を抱えたブルースへ、油どころかガソリンをぶちまけた人物こそ、メトロポリスの守護者にして鋼鉄の男スーパーマンである。
 ヴィランとの戦いをおろそかにせぬよう、度々忠告もして来たアルフレッドだが、しかしブルースの行動には頷ける所もあった。対抗心無くして何が進歩か、何が発展か。他所の街の事と放置したくとも相手は時折、ゴッサムへと飛んでやって来る。街の不文律も分からぬ輩に我が物顔で振舞われるのは、アルフレッドにとってさえ堪忍の緒がふつりと切れかねない事であった。
 その輩がいかに爽やかな面構えと声音であろうとも、ゴッサムが彼に従う事などあってはならない。したたかなこの街は表面上大人しくなろうとも、内部では今以上の腐敗が進む事だろう。そう考えると、アルフレッドの衣替えをし終えた掌に力が入り、絨毯を踏みしめる足に重さが加わる。
 更にあの男はゴッサムばかりではなく、バットケイブにまで無断で踏み込んで来た。アルフレッドが激怒するには十分過ぎる理由である。あの日以来、役立たないとは知りながらも、アルフレッドはドライバーを詰め込んだゴルフバッグ初め、諸々の武器をつい今しがた前を横切った部屋に置いている。
――本当ならワルサーPPKが欲しい所だ。
 ルシウスに頼んだ所「どうせなら黄金銃にしたらどうだね」と言われ諦めた事をアルフレッドは思う。隠し扉を起動させ、エレベーターが地下に着き、靴音を洞窟中に響かせながらも、いっそセキュリティシステムの再構築はどうだろうと考えは止まらない。水中用バットスーツの素材を滝に浸していたと、思い出せたのが僥倖である程だった。
 アルフレッドは上着を脱ぎ、シャツを捲くり、通り過ぎかけた滝の中へと腕を突っ込んだ。バットモービルの出入り口ではあるが今は昼間だ。それなりに水の勢いも広さもあり、深さも兼ね備えた滝は、新素材の実験場になかなか適している。
 逆に言えば老人1人溺れさせる事も容易いのだと、アルフレッドが気付いたのは、手にした素材の重みにバランスを崩し、水中に没してからであった。
 最初は何が起こっているのか分からなかった。バットケイブは暗い。水中はもっと暗い。咄嗟に伸ばした腕は、設置場所から跳ね飛んだ素材に阻まれ、ただ水をかき回すだけだ。驚愕に見開いた口からぶくぶくと空気が去っていく。

――しまった。

 滝の勢いに体が引っ張られる。水面を目指そうと反転しても、黒いゴムや革が引き続き邪魔をする。普段は沈着冷静な執事の頭脳を、上下感覚の狂いや水流は存分に掻き回し、貴重な酸素を奪った。泳ぎやすいよう靴は脱いだものの、シャツかズボンのどこかが岩にでも引っ掛かったらしく、もがいてももがいても体は先へ進もうとしない。
 水面を塞いでゆらゆら揺れる黒い素材の断片が、まるで蝙蝠の羽のようだった。
――私がこの恐怖を超える事は難しいようです、ブルース様。
 その黒に身を委ねようとアルフレッドが力を抜いた瞬間、轟音と共に水が爆散した。
 アルフレッドは思い切り空気を吸い込んだ。鼻から外気とケイブの臭いが飛び込んで来る。四肢が妙に頼りなく感じたが、それが疲弊による脱力感からか、はたまた宙に浮かんでいるからかは彼にも未だ分からなかった。後者だとすぐ分かったところで「天国に近付いている」と思ったであろう。
 腰のベルトから大きな手が離れ、背中にごつごつしたケイブの地面の感触がする。冷たい、痛い、と感じても、アルフレッドには目を開ける気力も残されていなかった。
「ペニーワースさん!しっかりして下さい!」
 そう言われて頬を叩かれても、いつものように「はい、どうかなさいましたか」と答えられる訳がない。
 ただ、流石の彼も、顎に手が掛かって軽く上向きにされ、更に何やら生々しいぬくもりが顔へと近付いた時は目を開いた。かつて鍛えられた第六感が久々に覚醒したものらしい。
 そして、あと数センチの距離に迫っていたスーパーマンの頬へ、往年のままの右フックが鋭く決まった。
「…ペニーワースさん、何も殴らなくたって。しかも岩を握らなくたって」
「……これは失礼致しました。人工呼吸の正しい方法を忘れる程ではありませんが、つい取り乱してしまったようです」
 粉砕された凶器を地面に帰しつつ、アルフレッドは起き上がる。威力とアルフレッドの拳へ来るだろう反発を軽減するためか、くるくると宙を飛んで行ったスーパーマンもまた、体勢を立て直して近付いてくる。
 アルフレッドもずぶ濡れだが、赤いケープの裾からも水が滴り落ち、地面に大きな染みを作っている。前髪のカールだけは変わらない、と言うよりむしろ明確にSの字を描いていて、そのおかしみがアルフレッドに常態を取り戻させた。
 見渡せば周囲にはゴム類が散乱し、激しい水飛沫で地面の色が変わっている。間違いない――スーパーマンが助けてくれたのだ。
「また不法侵入してしまいすみません」
 振り返れば鋼鉄の男が地面に降り立つ所であった。ケイブの岩だらけな床であろうとも、この男が立てばハリウッドのステージに変わる。アルフレッドに近付く際も、起伏を感じさせない滑らかな足取りだった。
「お怪我が無くて良かった」
「…貴方のお蔭です」
「僕は通りすがりですよ。…でも、本当に良かった」
 濡れた顎を一撫でして、スーパーマンは安堵の笑みを口元に滲ませる。
「貴方に何かあったら、バットマンはきっと自分を責めるでしょうから」
 アルフレッドは客人への礼儀作法を忘れ、しばし黙って目を瞬かせる。
 スーパーマンは「自分を責める」と言った。「悲しむ」ではなかった。
 1度は日の光のように傍若無人な侵入をしておきながら、主人へ堂々たる挑発の文句を叩きつけておきながら、同じ口でこの男は妙に――ものの分かった事を言う。
「…ペニーワースさん、それではこれで失礼します」
「アルフレッドです」
 顔を上げたと同時に発した、瞬間的な言葉だった。一瞬スーパーマンが目を丸くする。
「え?」
「アルフレッドで結構です。…ミスター・スーパーマン」
 濡れてより濃く感じる睫毛は、ぱちぱちと擬音が聞こえそうだった。
 次いで彫刻のような相貌に現れた表情もまた、にっこりという擬音が耳に届きそうなものであった。普段と変わらぬ、不躾にならぬ程度の無表情を頷かせ、アルフレッドはそれに応じる。
「それでは失礼、アルフレッド」
「今度はアポイントメントを取り正面玄関からお越し下さいませ。こちらに劣らぬ自慢の門構えでございます」
「拝見するのが楽しみだ」
 別れの掌が明るく振られる。アルフレッドが一礼すべく顔を下ろし、上げたその時にはもう、滝の中に何かが飛び込む音しか残っていなかった。



「珍しいな、こんな色のシャツがあったとは」
「衣替えの際に見付けたものです」
 クローゼットから取り出された青いシャツを、ためつすがめつするブルースに、アルフレッドはそう答える。それからすぐ主人の眉間へと暗雲が立ち込めるのは予想通りだ。
「…そう言えばメトロポリスの男から“取材依頼”があったんだ」
「昼のお顔に?それとも夜の?はたまた深夜のものですかな?」
「どちらかと言えば1番目だ。今日来るとか来ないとかふざけた事を言っている」
「それではお迎えの支度をしなければ」
 灰味を帯びた青い瞳がぐるりと巡らされる。矢張りこの繊細な色、霧を帯びたゴッサムの海にも似た瞳に最も合うのは、黒だとアルフレッドは確信に至る。そんな執事の考えには当然気付かない様子で、ブルースはいよいよ眉間の皺を深めた。
「アルフレッド。どうしたんだ?何かあったのか?」
「いえ、何も」
「おかしいぞ。君が……冗談でも奴を出迎えようと言うなんて」
「特に何があったという訳ではありませんが――」
 ただ、そう、青も捨てたものではないというだけの事だ。
「袖擦り合うも多少の縁と申しますし、唇の急接近ならば尚更の事だと存じますので」
「……何?」
 忠臣のつい漏らした答えに、ゴッサムの昼の王子が、夜の王者へと変貌したその瞬間――正面玄関の呼び鈴が、浮かれた声音で2人を呼んだ。

以前日記のどっかで書いた気がする話。
本当は「初めての接吻相手」って執事に言わせたかったです。
でも夜中に00ライセンス的な誰かが来そうで止めました。

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