SUNSCREEN

 錆の浮いたドアを開けると、瞬く間にサウナじみた熱気が全身を襲う。ジェイソンは思わず低く呻いた。
「うわ、何この暑さ」
「そう?」
 怪訝そうにディックが首を傾げる。彼が座るベッドは窓際に置かれ、今も夏の日差しを浴びているのだが、ディックの顔には汗ひとつ滲んでいない。
 確かに自分はゴッサムの最低気温地帯に慣れてしまった。だが、この暑さは無いだろうとジェイソンは呆れた。ディックは適応能力が高過ぎる。
「窓は?」
「開けてるよ」
「全部?」
「全部って、うちの窓はこれだけ」
 これ、の所で頭上の窓を指差してディックは言う。もう1度盛大にジェイソンは顔をゆがめたが、散らばった雑誌の間に鞄を置き、ディックの横に腰を下ろした。ディックが渡してくれたペットボトルの表面には汗のように水滴が浮かんでいる。
「暑い所は苦手って言ってなかったっけ?」
「今はそんなに暑くないだろ。まだ夏前なんだぞ?」
「夏の前だろうが後だろうが、暑いものは暑いの」
 額に滲む汗を意識しながらジェイソンは言う。Tシャツを引っ張り、なるべく涼を取り入れようと努力したが、風はそよとさえ吹いて来なかった。窓の位置が悪いのだろう。
「夏が来たらディック、茹で上がっちゃうんじゃない?」
「あー平気平気。いつも昼間はいないし、夜はもっと涼しい場所知ってるから」
 夜はヒーローとして街に飛び出している、という事なのだろう。外は外で暑かろうが、しかしこの部屋にいるよりは良い。
 成る程、とジェイソンは納得したが、今現在の暑さは我慢するしかない。気分転換に部屋を見回しても、目に入るのは干された洗濯物や、床を埋め尽くすゴミが殆どだ。むさ苦しさと暑苦しさが混じり合っている。
「アルフレッドが見たら卒倒しそう」
「まさか。問答無用で片付け始めるよ」
「…うん、目に浮かんだ」
 でも悲しそうな顔はするだろう。そう思いながらジェイソンは腰を動かし、窓から差し込む陽光を避ける。だがベッドの狭さとディックの座り位置もあって、膝や肩にはどうしても日が降り注いだ。
「夏前って言うけど、日差しはもう夏だよね」
 じりじりと焼け付く暑さに閉口しつつジェイソンは呟く。すると意外にもディックが頷き返した。
「ああ、そんな時期だよな。…日差しと言えばジェイソン君」
「何?」
「日焼け対策はしているか?」
「はあ?」
 真剣な表情とは裏腹な言葉に、ジェイソンは脱力しそうになった。気の抜けた声を発してしまう。だがディックはベッドを軋ませながら、ジェイソンへと顔を近付けて来た。
「してないのか?」
「してないよ。必要無いだろ」
「いいや」
 ディックが言葉を切ってジェイソンを見返した。そこに収まる瞳の色は、春の湖のように澄んだ碧だ。しかしその優しげな色とは裏腹に、彼の目を輝かせるのは意地悪げな笑みである。ジェイソンは嫌な予感がした。
「あるんだよ、必要」
 世界の秘密を教える魔法使いじみた囁きが、ジェイソンの鼓膜を揺らす。きっと可愛い女性を落とす時にでも使う声音なのだろう。脳裏にやけに響く。首を振って追い払いたくなった。
 代わりにジェイソンは憮然とした声で応じる。
「どんな?」
「それがさ」
 嫌な事でも思い出したのか、いきなりディックは肩を落とした。どこか恨めしげな目でジェイソンの腕や足やを眺めている。
「…外に遊びに行って、日焼けするだろ」
「うん」
「1回や2回は良いんだよ。でもな、それが何度も回を重ねていくと、ロビンの時が大変なんだよ」
「大変ってそんな……あ」
「そう」
 弊害に思い当たったジェイソンへ、ディックが厳かな顔で頷く。
「あのパンツ短いだろ。だからな、腿の辺りに日焼けの痕がくっきりと……」
 溜息を吐くディックにジェイソンは納得した。
 ロビンになる時は夜が殆どだ。だが当然、屋内の、電灯が点いている下に行く事はある。そうした時に白と黒に二分された生脚で戦うのだ、と思うと――これはかなり恥ずかしい。
「ブルースは何か言ったの?」
 ジェイソンの問いはディックの核心を突いたらしい。渋い顔で彼はああ、と答えた。
「…ストッキングでも履くか、って」
 皮肉なのか冗談なのか。どちらにせよジェイソンは、ブルースの口からストッキングという単語が出た事に吹き出しそうになる。彼にしては洒落た提案ではないか。
「それ、で、履いた?」
「馬鹿言えよ!履く訳ないだろ!…タイツは履いたけど」
 とうとうジェイソンは笑い出した。ベッドに転がって腹を抱える。嫌そうに顔を顰めてタイツを履く、在りし日のディックが目に浮かぶようだった。
「おいこらジェイソン!笑ってられるのは今の内だぞ、今度はお前の番なんだからな!」
「あ、ああ安心してよ。絶対に履かないよう気を付けるから、さ」
「…教えなきゃ良かった」
 憮然としてディックは横を向く。ひとしきり笑い満足してから、ジェイソンは起き上がって彼の肩を叩いた。
「まあまあ、若い頃にはそう言う失敗もあるもんだって」
「じじむさい事言うなよ、坊やの癖に」
 唇を尖らせて言うディックに、どちらが年下やらとジェイソンは笑った。横を向く顔には確かに日焼けした様子は無い。きっとその頃の教訓を未だに活かしているからだろう。
 その白い横顔に、ふと闇夜の騎士の相貌が重なった。
 彼はどうなのだろう。矢張りディックのように、日焼け対策をしているのだろうか。
「ディック」
「何だよ」
「ブルースってさ、やっぱり日焼け対策してるの?」
「…してなかったな」
 僅かな間を置いてディックが答える。ジェイソンは、へえと小さく嘆声を上げた。意外だ。
「やっぱり露出が少ないからかな?」
「グラビアみたいな言い方だな、それ」
 小さくディックが笑った。あのブルースにグラビアとは、とジェイソンも同じく微笑しながら言う。
「細かい事、気にしてそうなのに」
「うん。本人も日焼け止めとか塗りたがってたけど、でも……」
「でも?」
 気になる所で途切れた言葉に、ジェイソンは首を傾げた。だがディックは口を噤み、何でもないと言いたげに頭を振る。
「いや、大人の事情ってやつだよ」
 そこから先をディックは掘り下げさせる事なく、別の話に持って行ってしまう。更に問いたかったジェイソンだったが、ディックがその隙を見せる事は無かった。



 それから数ヵ月後。ウェイン邸の一角では、その理由が繰り広げられていた。
「おい」
 自分の首筋に背後から顔を埋めている男へ、ブルースは冷たい声で呼びかけた。
「うん?」
 耳朶にくっ付きそうなほど唇を寄せて、クラークが答える。吐息と動きにブルースは眉を寄せたが、声音ばかりは先程と変えぬよう、努力して言い続けた。
「そんなに楽しいか」
「楽しいと言うか、感動しているよ」
 数年前から繰り返したやり取りだが、ここで止める訳にはいかない、とブルースは妙な負けん気に駆られる。視線を本の上に落としたまま問うた。
「何にだ」
「日焼けの痕ってセクシーだな、って」
「スーパーボーイと持ち場を交換したらどうだ?ハワイなら事欠かないだろう」
「それも良いけど」
 否定しないとは、数年前に比べれば図太くなったものだ。しかもクラークの指はシャツのボタンの上を行ったり来たりしている。こちらの腕も数年前に比べて、と思うブルースは、自分の忍耐と慣れの値も上がっている事に気付かない。
「君だから余計に色っぽく見えるんだよ」
 否定の言葉をブルースに上げさせぬまま、クラークが薄い耳朶に口付ける。2度、3度と軽い音が響く頃、ようやくブルースは本を閉じた。見計らったようにクラークは腕を緩め、ブルースに振り返るだけの余裕を与える。
 そして見つめた鋼鉄の男の額に、ブルースは軽く本をぶつけた。
「毎年同じ口説き文句を使うな」
「毎年君が同じ事を聞くからだろう。言って欲しい癖に」
「もう飽きた。来年からはもっと良い台詞を考えろ」
本をどけると夏そのもののような青い瞳が笑った。
「つまり、僕の為に来年も日焼けしてくれる、って事だね」
「馬鹿な事を言う」
 クラークの頬に自分から口付けて、ブルースは言った。
「半分は、日焼けした私を好むご婦人方の為だ」
 残り半分を捧げられる男は、少し目を見開いて、それからすぐにブルースを引き寄せた。日焼けを知らない指が、やや褐色に近付いた肌の上を滑っていく。
 今年も大人の事情は幕を開けた。
 余程の事が無い限り、アルフレッドの常備している日焼け止めは、来年もジェイソン専用となる事だろう。

ディックさんは暑さに強そうな事言っておいて、いざ真夏になると弱ります。
アイスばっかり食べてそう。

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