太陽と朝食を

 東の空が夜明け前の蒼に染まり始める。街の空気も静謐な色に鎮められたのか、数時間前の熱気が嘘のようだ。
 暑さに浮かれ騒ぐ犯罪者達も、この時間ばかりは息をひそめる。束の間の平穏を味わえとでも言うように、ゴッサムの夜の帳はゆっくりと退いていく。
 そして今日も生き残った闇夜の騎士は、石膏の悪魔を足下に据え、僅かな勝利を噛み締めていた。
 涼風に揺れるケープが無ければ、彼自身も彫像と思われた事だろう。やや前のめりな上半身の角度さえも、朝日をより美しく受ける為に、綿密に計算された芸術品めいて見える。何百年も前からそこに立ち、街の様を見守っていたと言われれば、信じてしまえそうだった。
 だがクラークが風景を壊さぬようにと、畏怖にも似た気持ちで踵を返した瞬間、蝙蝠の一声が発せられた。

「相変わらず朝の早い男だ」

 疲労と犯罪者達への威嚇で枯れた喉にしては、随分と通りの良い声だと思う。しかし言えばきっと怒るのだろう。もっと婉曲な褒め言葉を探しながら、一流記者は宙で振り返った。
 こちらを見上げる顔に不快な色はない。そう悟った瞬間、探していた褒め言葉など吹き飛んでしまう。早々と腕一本分ほどまで距離を詰めて、クラークはブルースに朝の挨拶を投げ掛けた。

「おはよう。君こそ、意外と早起きじゃないか」
「徹夜を早起きとは言わないだろう」
 肩を竦めてクラークはブルースの視線を追った。東の空はもう蒼を通り越し、菫と薔薇を織り交ぜた華色に染まっている。
「しかし朝の散歩にしては……遠い距離だな」
 本気になれば一瞬で辿り着ける男に対し、ブルースは言う。
「散歩をする分にはね」
 ふと訝しげに片眉を上げたブルースへ、クラークはでも、と続けた。
「君に会いに来る為なら、そう遠くもない」
 言い終わるより早く、顔を顰めたブルースがベルトに手を伸ばしていく。待ってくれと慌てた声を出すと、不穏な気配を表情に残しながらも彼はすぐ手を収めた。
「冗談に冗談で答えたまでだ」
「口説き文句には口説き文句で答えて欲しいんだけどな」
 クラークの拗ねたような声音に、ようやくブルースが唇を吊り上げる。どことなく酷薄な微笑だがしかし、闇夜の騎士そのもので在る時とは異なって、獰猛な悪辣さは感じられない。
 胸を撫で下ろしたクラークへ、被せられた声音は少々冷たくはあったが。
「お前が年中口説き文句ばかり言ってくれるお蔭だ。どれが本当で冗談か、判別し難くなってしまった」
「全部本当の口説き文句だと思えば良いよ」
 冗談でそんな事を口に出せるほど器用ではない。しかしながらブルースの見解は異なっているらしく、どうだか、と言わんばかりに視線を逸らされた。伸び上がり、半ば宙に浮きながら、クラークは彼の顔を追っていく。
「本当だよ。それこそ、もうすぐ太陽が昇るのと同じ位に真実だ」
「そうかそうか」
「ブルース」
 本日初めて呼ぶ名前が、苛立ちと共にであるのが少し悲しい。会話が弾んでいると言えなくもない、むしろ“いちゃ付いている”状況ではあるが、自分は明らかにあしらわれている。
 ならば、とクラークは目映い白を帯びた空に、人差し指を向けた。
「分かったよ、じゃあ君は太陽が昇らないと信じている訳だな?」
「おい」
 剣呑さを滲ませた声音にも負けず、あえて笑ってみせる。ブルースが眉を寄せた。彼の眉間はきっと今、困惑と呆れで出来上がっているだろう。
「それとこれとは話が違うだろう」
「いいや、違わない。こうしよう。太陽が昇って来なかったら君の勝ち、昇って来たら僕の勝ちで……」
「どうするつもりだ?」
 空とブルースとの間に指をさ迷わせて、クラークは首を傾げる。
「どうしようか」
「クラーク、賭けを言い出すならばその辺も詰めておけ」
 正論にクラークは思わず黙り込んだ。細長い溜息をブルースが吐き出す。上がり始めた気温と湿度が、急に圧し掛かったような心地がして、クラークはあらぬ方向に目をやった。

「…ならば、朝食でも賭けるか」
 そう言ったのは当然、喉で押し潰された声。つまりブルースの方だった。無言で仰天するクラークから顔を背けながらも、彼は言う。

「お前が勝ったら私が朝食を奢る」
「…作るのはアルフレッドじゃ」
「賭けをしたくないと?構わないぞ私は、大歓迎で――」
「分かった!」
 ブルースの口を塞ごうと思わず手を伸ばしながら、クラークは深く頷いてみせた。
 こちらこそ別の意味で大歓迎だ。ただの提案がここまで化けるとは思わなかった。明け方の、緊張の解れた時間帯には会いたがらないブルースが、寛ぐ朝食という場に招待してくれるとは。
「もし僕が負けたら、メトロポリスで何か作るよ」
「いや、それはまず無いだろう……」
「あ」
 首を少し寄せれば口付け出来そうな距離で、クラークはブルースのように唇の端を吊り上げた。ついでに、行き場を失っていた人差し指で、彼の硬い肩をちょんと突く。
「やっぱり僕が本当の事しか言わないって、信じたいんだ?」
「……信じたい訳があるか!天文学的な問題と確率を言ったまでだ!」
 だが、そんな穴のある賭けに彼が乗った事は、満更でもないという思いの裏返しなのだろう。
 そこまで言うと更にブルースの逆鱗に触れる。折角手に入れた朝食権を離すまいと、クラークは必死に黙って頷いた。

 鮮やかな陽光が、2人の姿を照らすまで。

いちゃいちゃは書いていて楽しいです。
この後、「同席するとは言っていない!」と逃げようとする蝙蝠。
それを取り押さえる超人&執事。約束破りはいけません@執事。

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