TIME

 雷に打たれ、スーパースピードを身に付けてから早数年。自分のような超常能力を持った人間は無論、宇宙人にも、地底人にも、未来人にも出会った。ついでに言うと過去の自分にも遭遇した。
 とにかくヒーローとなってからは、子どもの頃の夢想以上に凄まじい体験をした自負がある。ちょっとやそっとの事では驚かない自信がある。それにまあ、自分は昔から呑気だ楽天家だと言われるように、妙な所で図太い訳だし――と思っていた。
 過信であった。

「大丈夫かい、バリー?」
「へ、平気だよ」
 タワーの給湯室に入って以来、物音も立てぬクラークを、訝しく思ったのがいけなかった。脱力した足に力を込めながらそう自省する。横では当のクラークが、助勢しようかどうか迷った様子で歩いている。
――まさかお湯を沸かしている姿に、腰を抜かすなんて!
 舌打ち混じりにそう思った。今日ウオッチタワーにいるのが、彼と自分だけで幸いだ。余人には言える訳がない失態である。
 そう、例えクラークがヤカンを温めるのにガスでも電気でもない、ヒートビジョンを使っていたとしても、だ。
 人形のように力が篭もらぬ膝を叱咤して、バリー・アレンは少々怪しげな動きで司令室へと戻っていった。



「…しかし、ヒートビジョンってあんな使い方も出来るものなんだなあ」
 ようやく座った椅子に体を預けてバリーは言う。身体と同じく脱力し切ったその声に、横に立ったままのクラークが、面映げに広い背中を丸めた。
「うん、その、火力調整は少し面倒なんだけどね。普通のガスや湯沸かし器より早いから」
 ついやってしまうんだ、と答える彼に、バリーは少々呆れた目線を投げ掛けた。肝心の目はマスクで覆われているが、伸縮性に優れた布は、些細な表情の変化にも対応してくれる。加えて相手は、バリーより遥かに無愛想な男の親友なのだ。マスクヒーローには慣れている。
 案の定クラークは大きな体躯を更に丸めた。先程マグマ級の熱線を放出していた瞳を見上げ、溜息を交えつつバリーは呟く。
「何もそう急がなくたって良いのに」
「苛々しないのかい、世界最速の男は?」
「そいつと競争出来る相手に言われてもね……。答えは簡単。ノーさ」
 バリーは肩を竦めた。答えを奇異に思ったのか、クラークが目を瞬かせる。意外と睫毛が長いんだな、など埒も無い事を思いながら、緋色のスピードスターは鋼鉄の男に言葉を並べていった。
「遅刻している時はまあ、別として、遅さに苛々するって事はまず無いね。僕と世界の時間じゃ絶対こっちの方が速いんだ。付いて来い!って思う方が無茶だよ。…昔はもっとゆっくり時間が進めば良いのに、って思ったけど」
 世界最速の遅刻魔だ、と責める恋人の言葉を思い出してバリーは微笑んだ。自分の遅刻癖を知るクラークも、つられてふっと小さく笑う。
「僕がのんびり過ぎるんだ、と言われそうな気もするな。だけど君もそう違わないだろう?」
 言いながらバリーは隣の椅子を引き、クラークに座るよう促した。答えを中空に求めるように晴天の瞳をさ迷わせてから、青いボーイスカウトは腰を下ろす。
「確かに……考え方はさして君と変わらないよ、バリー」
「ああ」
 クラークの声は低い。先程の躊躇いと言い、濃い眉の間に出来た皺と言い、答えを出すのに躊躇っているようだ。
――何か事情があるのかな?
 内心でそっと首を傾げながら、どこまでもバリーは穏やかに頷いてみせる。リラックスさせる為に、彼が沸かした湯でコーヒーを淹れる事も考えたが――自分にとっては瞬きと同じくらい早く簡単だ――クラークが口を開いた所で止めておいた。彼の気勢を殺ぎかねない。
「それが」
「うん」
 どうやら話す覚悟が付いたらしい。何だか相談所じみて来た場を茶化さずに、JLA随一ののんびり屋は、黙ってクラークの次の言葉を待った。
 会議等でのクラークは迷いなく饒舌だ。しかし普段、それも私の部分が大きく出る場面においては、別人のように口ごもる時がある。言葉の大切さを知る故なのだと、むしろ好意をもってバリーは考えていた。
 ギャップが大きい鋼鉄の男は、溜息をひとつ吐いてから本格的に喋り始めた。
「僕も普段はそれなりに忙しい。でも……コーヒーを淹れる相手と言えば良いかな?その相手は僕以上に忙しくてね。そちらに合わせなければと思うと、どうしても急いでしまうんだよ」
「成る程、確かに少しは合わせる必要があるだろうね」
 でなければ一緒にいられる時間が減ってしまう。愛しい恋人も以前、「そんな事がどうして分からないのよ!」と怒っていた。それからすぐ、自分がどういった意味を言ったのか把握して、頬を真っ赤に染めていたが。
――照れた顔も可愛いんだよなあ。

「しかもその相手が短気で……」
「え?ああ、それは大変だ」
 唇をだらしなく緩めかけていたバリーだったが、慌てて顔を引き締めた。記憶の中の彼女に謝罪して、今だけは遠くに追いやっておく。
 そんなバリーに幸いクラークは気付いていないらしい。自分の言葉に煽られているのか、顔の険しさと舌の滑らかさが増していっているようだ。

「コーヒーやお茶を淹れる時間にはそう厳しくないんだけど、何か準備するとなったら急かすんだよ。確かに向こうの手際は良いさ。でもそれをこっちにまで求められても困るじゃないか?」
「うん、分かるよ。都合ってものもあるんだからね」
「そうそう、僕だって相手の都合はそれなりに考えているのに、向こうはお構い無しなんだ」
 よほど鬱憤が溜まっていたのか、クラークの語気は荒い。快晴の瞳にも乱気流が吹き荒れているようだった。珍しい事もあるものだと、バリーは半ば目を丸くして聞くしかない。
 ただ話の内容に、ふと引っ掛かる物がある。

――もしかして、これは。

「この前なんて玉葱を刻む速度が遅いって散々言われたよ。仕方ないじゃないか、細かくみじん切りにしようとしたら遅くなるだろう?向こうだってピーラーが無いと野菜の皮を剥けない癖に、全く……」
「クラーク、クラーク」
「何だい?」
 ちょっと待ってくれ、と逞しい肩を叩き、バリーは流れ続けていた言葉を塞き止めた。
「つまり君はわざわざヒートビジョンでお湯を沸かしたり、スーパースピードで玉葱を切ったりする程、相手に合わせている訳だね?」
「バリー、玉葱の件は誤解だ。スーパースピードを使ったら、玉葱の組織がぼろぼろになってしまう可能性が」
「それは大変だ、今は横に置いておこう。で、君は相手の言葉に頑張って耐えていると?」
「…いや、そこまででは……」
 そう呟いてクラークが俯く。彼の様子にいよいよ確信を深めながらバリーは言った。

「良く分かったよ――君はとてもその人を愛しているんだな」

 答えも相槌も無かった。ただ、弾かれたようにクラークが顔を上げる。
 そして彫刻も裸足で逃げ出す端整な容姿が、一呼吸分黙った後で火を吹いた。

「と、とても、あああ愛している、って、そんな、いや、あの」
 激しく取り乱すクラークは、どうやら顔ばかりでなく心の方にも点火されたらしい。ティーンエイジャーにも似た様子にバリーは思わず微笑んでしまった。
 恋人がいるのに愛の旅路を止めようとしない、同年代の仲間達は見習って貰いたい――特に緑色をした彼や彼に。
「まあまあ、落ち着いて。現にその“相手”とは付き合っているんだろう?」
「……一応は」
 そう尋ねた瞬間、肩を落としてクラークは応じた。落胆とも取れそうな仕草に訝しさを感じながら、バリーはとりあえず宥めがてら軽く背中を叩く。本気で殴ったらこちらの骨が折れる体は、今はまだ常人と大差ない触り心地だった。
――鋼鉄の男も人の子って所かな。
「じゃあ話してみるのも悪くないと思うよ?」
「いや、そこまで深刻な問題でも無いんだ!」
「何も真剣に話せとは言っていないよ。さりげなく、軽口めいて言う位なら良いんじゃないかい?」
 眉尻を下げているクラークを、励ますようにバリーは笑い掛けた。今の恋人と付き合う前、友人に相談した事が甦る。
「君が我慢出来る範囲内なら良いけど、時間の感覚の違いは大事だからね。タイムスリップしてどうこうしようにも、君にその能力は無いときてる」
 わざと冗談らしく言うと、ようやくクラークの唇が綻んだ。思わず胸を撫で下ろしたその時、廊下に繋がる扉が開く。

 そして宵闇色のケープが翻った。

「少し待たせたな、スーパーマン。…交代だ」
「あ、もうそんな時間か」
 バリーは腕時計に目をやり、随分な時間が経っている事に驚いた。自分と同様に驚いているのか、固まっているクラークの肩を押す。
「それじゃあ健闘を祈っているよ」
「え、ああ、うん……ありがとう」
 心なしか戸惑っている目で答えてから、クラークは引継ぎとシステムチェックの為に、ブルース共々廊下へと消えていく。
 それにしても彼は一体、どんな女性と付き合っているのだろうか。話の内容から推測するに、きっと気丈ではっきりした女性なのだろう。それこそ、クラークとは正反対な性格ではなかろうか。
「でもそういうカップルが意外と長持ちするんだよな……」
 少しばかり当てられた気分である。
 もうすぐ自分も交代相手が来る頃だ。フリーになったらアイリスに電話するのも悪くないだろう、とバリーは微笑んだ。
――そう言えば次のデートっていつの予定だったっけ。



 ブルースの横顔は普段と変わらない。話を聞いていたのか否か、表情からは全く分からない。
 しかしどうしてこう、彼のマスクは表情が読み辛いのだろうか。バリーのマスクも似た形状だが、彼の方が分かり易かった。照れと羞恥と勝手な怒りを胸に、クラークは黙って周囲に視線を巡らせた。異常箇所は無しだ。
「…特に異常は無いな。それでは」
「…うん、気を付けて」
 そして会話も特に異常を見せぬまま終わる。クラークは安堵してブルースに背中を向けた。
「ああクラーク、言い忘れていたが」
「うん?」
 タワー内では珍しく、自分の本名を口にする彼に違和感が浮かぶ。それが嫌な予感となるよりも、ブルースがそれを述べる方が早かった。

「私はそれほど短気ではない」

 ごく自然な口調に、脳が言葉を流しかける。理解するまで少々時間が掛かったが、意味を把握した瞬間、クラークは真っ青になった。
「き、君、は」
――どれだけ前から話を聞いていたんだ?!
 脳裏での叫びを汲み取ったように、ブルースが手を掲げる。静かにしろと言いたいのだろう。憎々しいほど落ち着き払った動作だった。
「立ち聞きするつもりは無かったが、あそこで出て行くとお前が変な事を口走りそうだったからな」
「だからって!」
「…私が悪かった」
 聞きつけない言葉に、クラークは自分の聴覚を疑った。
 改めてよく眺めると、ブルースのマスクで隠れていない頬の辺りが、僅かながら紅色を滲ませている。閉じられた唇はほんの少し、拗ねているように噛み締められていた。
「お前があそこまで鬱憤を募らせているとは……思っていなかった」
 考えてみれば、ブルースは聞かなかった振りも出来た筈だ。言い出すにせよタワーを出てから、2人きりで会う折まで待つ事も不可能ではなかった。

 なのに今、ここですぐさま話を持ち出すとは――彼が自分を気に掛けている証拠ではないか。

 思い立った途端、頭の中で天使が祝福の鐘を鳴らす。
 文字通り浮き足立ってクラークはブルースに近寄った。本当は抱き付きたいのだが、流石にここでは不味い。糸のような自制心が活動したお蔭で、怪しまれない寸前の距離で足を止めた。

「口喧しいつもりは無かったが、つい出てしまう物らしい。気を付けよう。それに野菜をナイフで剥けるよう修行するつもりだ」
「そ、そんなに前から聞いていて……いやブルース、僕の方こそ遅くなり過ぎないよう努力するよ。あと玉葱のみじん切りも」

 高まる感動に手に手を取って、といきたい所だったが、生憎とブルースが一歩下がってしまう。どうしたのか、と問う前に、その原因が背後から声を掛けて来た。

「やあ。2人とも相変わらず早いな」
「ハル」
「お前が遅いんだ。バリーが待っているぞ」
 容赦ないブルースの言葉に、ハルは首を竦めながら唇を吊り上げる。
「あいつにはしょっちゅう待たされているからな。お互い遅刻する位で丁度良いんだよ」
「そんな物かな」
 苦笑するクラークにハルは軽く顎を引いた。栗色の髪が、秀でた額にさらりと落ちる。
「そんな物さ。で、スピードスターは中かな?」
「ああ、ゆっくりして――」
 いるよ、と発した語尾は風に吹き消された。突如として巻き起こった緋色の突風を、荷物片手に走るバリーだと捉えられたのはクラークだけだったろう。

 だがそのクラークも、通り過ぎたバリーが再び引き返してくる姿を、はっきりと目視するのは不可能であったが。

「ハルー!」
「な、ど、どうしたんだよバリー?」
 いきなり襟首を捕まえられたハルが、目を白黒させて尋ねる。舌を噛みそうな盟友にも気付かないまま、バリーは半ば泣きながら、しかしいつもとは打って変わった早口で答えた。

「来てくれて良かった、今日はこれからアイリスとデートで待ち合わせが3分後なんだ!システムチェックは終わったからあとはよろしく頼むよ、ああでも何かあったら気遣い無用で電話してくれて構わないすぐ駆け付けてみせるから!それじゃあ!」
「あ、おい!」

 急に手を離されバランスを崩すハルに、咄嗟にクラークは手を貸した。緋色の風は既に奥へと消えていっている。
「そのまま宇宙に飛び出るなよ!…言っても無駄だな」
「相当焦っていたね」
「“次に遅れたら関係を考える”と言われていたそうだからな」
 ブルースの言葉に納得するよりも、それほど大切な事を忘れるとは、という呆れが先に立つ。しかし自分の話を聞いていたからだろうかと、クラークは申し訳ないような思いだった。
「…間に合うと良いな」
「ま、バリーの事だから、間に合わなくても大丈夫さ」
「だろうな」
 今まで何度別れ話があったのだろうか。ついクラークは自分とブルースの歴史に重ねてしまう。彼に視線をやると、ブルースも同じような思いだったらしい。目が合ってしまった。
「……そうだね、大丈夫か」
 2つの意味を込めて言う。
 照れ臭さを堪えているのか、ハルに気付かれているのを懸念しているのか、ブルースは常にも増して厳しい顔で小さく頷いた。

書くのに時間が掛かるなあと思っていたら長くなりました。
近頃気になっていたシルバーエイジ組を書けて満足です。今度はオリーも入れたい所。

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